気を遣わせてしまい申し訳ない、謹んでお祝いの言葉を辞退しますという宣言

毎年Twitterで長文投稿していたものの、めんどくさくなったのでフォーマット化することにした。


いや、自意識過剰かなとも思うんですが、とはいえ「今日はこの人の誕生日です」なんて情報が流れてきたら、それが誰の誕生日かはさておき、「祝わなきゃ」と思う人もいるでしょう。もし、今日が私の誕生日であることを偶然知ってしまったとしても、祝わなくてはならないと思わないでください。むしろ気を使わせてしまい申し訳ないです。お祝いの言葉は、謹んで辞退しますという宣言の文書です。

この日は私にとって、それを“名目”に仕事を早めに終わらせて遊んだり、場合によっては休んで遊んだり、深夜まで遊んだりしても罪悪感を抱かないように自ら暗示をかけているため、己の行動によって判明する可能性を否定できず、先回りして宣言します。


以降は余談です。

見たくないものというのはまぁ誰にでもあるとして、私にとってそのうちの一つは、「あんまりFacebookを使っていない人のプロフィールページに、ひたすら積み重なるコピペみたいなお祝いの言葉」です。特に、わざわざあまり使ってないであろうFacebookにログインして、コピペみたいなもんに丁寧に返しているのを見ると、なんだかその非対称性にもやもやする。別に私が見たくないだけなので、他人がそういった行動をしていること自体を咎める気は無いんですが、殊に自分が受け取るとなった場合、送る人もある種の義務感で送るとすれば手間がかかるし、受け取った自分もそれに対して何らかの返答を送らざるを得ない義務感を得るので、誰もハッピーにならねーなと思うわけでして。

いや、コピペが悪いわけじゃないんですよ。お祝いの言葉はオリジナルな長文であるべき、みたいなお手製マナーを作るつもりもありません。単に一種の社交辞令として、「祝わなきゃいけないから祝う」みたいな義務感であったり、「とりあえずこれ送っておけばいいか」みたいな適当さが悲しいなと思うだけなのです。数年で而立を迎えるというのに、社交辞令に対する気持ち悪さだけは、社会に適合するのを成長と呼ぶならば、成長しなかったなぁと思う。ビジネス経験を経て耐性がつくと思っていた時代もありましたが、上司によっては社交辞令が飛び交うことになる営業経験を経て、むしろ悪化しました(´・ω・`)

ということで、もし私の何らかの「通例によれば祝ったほうがいいこと」を偶然見かけたとして、祝わなきゃと1mmでも義務感を感じてしまった場合、祝わなくても薄情だと思わないどころか、社交辞令を送らないでいてくれてありがたささえ感じるため、気にせず知らなかったことにしてお気遣いなく、お過ごしいただければ幸いです。


分からないように何も言わなければいいのでは?みたいな話もありつつも、例えば誕生日ではない平日に勤務時間を短くして遊びにでも行こうものなら、自分で自分を許せないので、誕生日自体を公言したいというよりは、誕生日だから自分を許すことにしています(し、もし勤務時間が短いと思われるようでしたら、こういった理由ですので他の日に頑張るから許してちょんまげ)と言い訳めいたものを明言しておきたさはどこかである。あと、Twitterをライフログとして使っている身としては、結構誕生日なのでここに行くみたいなことがありがちなので、直接的に書かなくても分かってしまうことはありそうだ、ということで。

この歳になると別に嬉しい1日ではないんだけど、名目にすることでイレギュラーな1日を発生させるのは毎年楽しくて。こういう名目がないと、休日はまだしも平日の1日をどうにかしようとはならず。というか普段の休日だって「この日は何かをしよう」っていうわけじゃなくて、やりたいことがあるからそれをやっているに過ぎず、やっぱりこの1日はそれを名目に「何でもいいけど何かをしよう」ということ自体が特殊なのだなと思う。

©︎moemarusan