『チーム・ズンチャカ!』2年目を終えて個人的に振り返ってみた ー チームか、コミュニティかみたいな話

※ 結論から書けばすぐ終わる文章を、語るためだけに長く書いている事案


 ここ最近、仕事以外の時間をほぼ充ててきた『渋谷ズンチャカ!』2020が、とうとう9/6(日)に終わってしまった。しかるべきキャプテンとしての公式アナウンスは別できちんと書いたつもりだし、方々への感謝は直接伝えることにして、参加者の一人として考えていたことをただただ、残しておこうと思う。要は、自分語り。

 昨年を経て、今年もチーム・ズンチャカ!へ参加して、キャプテンという役割を得て活動してきた理由を、方々で「昨年の消化不良を消化する」ためだと言ってきたが、ここで書くのはそういう話で、2年目の本番を終えてやはり自分は人一倍、ここに課題感を持っているなと。

 なお、万が一関係各位、こちらを読む機会があり、問題のある記述を発見されましたら、どうぞご一報いただければ幸いです。そしてこの文章を吐き出した時点で、自分としては完結しているので、なるべくそっとしておいていただけますよう、なにとぞなにとぞ……


そもそも、チームってなんだ?コミュニティってなんだ?

 ここでは、チームを「ある目標を共有する集団」、コミュニティを「ある価値観を共有する集団」として定義しておく。これは私が勝手にそう考えているだけで、辞書を引くともっと小難しくて堅い言葉でいろんなことが書いてある気がするけどまぁいいじゃろ、個人のブログだし。

 ここでいうチームでは、一人一人のメンバーには役割があって、それらを為すことによって全体の目標が達成される。だから、自らの役割を以て貢献することが、そのチームへの参加理由になる。分かりやすいところで例えば、営業チームは一人一人の数値目標を達成することで、積み上げ式に全体の数値目標が達成されるような構造になっていることが多いのではないだろうか。営業だけでなく、目標管理されがちな仕事においては、だいたい同じ構造になっているはずだ。同じ構造といえば、合唱部だった中学時代だって、コンクールで金賞を取るために自分のパートを正しいピッチできちんと歌い切ることが必要だった。自分の役割を通して、全体のゴールを見据えるのが、チームに参加することである。相互に話し合うプロセスを経ることもあるが、基本的に個人目標は、全体最適の中で役割分担を以て決定される。また、全体のゴールを達成してしまったら、次のゴールを発見しない限り、集う理由がなくなってしまうので解散することになる。営業チームの目標は毎月更新され、毎月追いかけ続けるために解散することがないのと同じように、週・月・年単位での目標を更新し続けることで継続しているチームもある。

 対してコミュニティでは、ゴールの代わりに価値観が優先される。それぞれが異なる目標や目的を持っているかもしれないが、コミュニティへの参加理由は価値観への共感だから問題ない。価値観というのは、明文化できるようなかっちりしたものもあれば、友人関係のような「居心地がいい」くらいゆるやかなものもあるだろう。趣味のサークルであれば「米米CLUBが好き」とか、某アプリに集う人は「子育てに関心がある」とかそういうのもありそうだ。共感をベースにメンバーはそれぞれの目的に向かって能動的に動く。身近な例だと、「あちこち行くのが楽しい」という価値観をお互いに共有する何人かの友人とは、それぞれが行きたい場所を能動的に出し合う。それが重なれば一緒に行くし、興味がなければ一緒には行動しないかもしれない。別に自分から出さなくても、相手のやりたいことに乗っかったっていい。コミュニケーションを重ねていくことで、「あちこち」の範囲が広がっていく。規模は異なるだろうが、価値観への共感が唯一の参加理由であるがゆえに、何かをしてもしなくてもコミュニティには居続けることができ、続けば続くほど価値観は深まっていく。逆に言えば、価値観への共感を2人以上のメンバーがしなくなれば、その時点でコミュニティは解散となる。

チーム・ズンチャカ!、チームとして見るか?コミュニティとして見るか?

 まぁ、「チーム」・ズンチャカ!と言ってはいるんだけども。

 チーム・ズンチャカ!という集団もこのあたりが非常に面白くて、どちらかが正解というわけではなく、「チーム」としての側面も「コミュニティ」としての側面もあるように思う。しかし、おそらく人によってどう認識するか、それぞれの割合がたぶん異なる。そして、ズンチャカ!経験が長ければ長いほど、コミュニティとしての側面を強く感じるようになるのではないかなぁ。


※ 一応、個人の考え方や性格を、それも大して相手を知らないうちに、他人が勝手に類型化するのに抵抗があるので書いておきますが、主語を大きくしただけで、自分というn=1の範囲において、感じ方が多少変わったので、そういう傾向あるんじゃね?と思ったという、非常に安直な話です。

なんでそんなことを思ったのか?

 昨年から関わり始めたチーム・ズンチャカ!メンバーの中で、おそらく私は、昨年と今年で、関わり方が大きく変わったメンバーの一人だと思う。

 正直、昨年を終えた段階で私に残っていたのは、チーム・ズンチャカ!として公式サイトで名前を載せてもらいながら、何もやれなかった、貢献できなかった(と、少なくとも自分では思っている)ことによる「消化不良感」と「居づらさ」だった。

 このあたりの感じ方を話したときに、実は長年関わっているであろう何人かのメンバーから「責任感が強い」あるいはそれに類することを言われて、それに対して「本当にそういう話だろうか?」と、少し引っかかりを覚えたのがきっかけでずっと考えていたのだが、キャプテンという役割を持って今年の活動を終えてみて、感じ方がかなり変わったので、もしかしたら経験を積めば積むほど変わるのではないか、と思った次第である。

チームから入る?

 そもそも関わるにあたって、何を見て私たちは手を挙げたのか、あるいはこれから参加しようとする人は何を見るのか、公式サイトの記述を見てみよう。

この“みんなでつくる”音楽祭は、当日の運営だけでなく全体の企画を考えるところから、有志で集まったボランティア(「チーム・ズンチャカ!」と呼んでいます)の手でつくっています。
そんなチーム・ズンチャカ!を、2021年、一緒に担ってみませんか?

 私が初めて応募した2019年、この記述は同じ表現ではなかったかもしれないが、とはいえ内容としてはさほど変わらないだろう。

 つまり、ここで手を挙げた私は、あるいは他の誰かもそうかもしれないが、「2021年に開催する“みんなでつくる”音楽祭をつくるための集い『チーム・ズンチャカ!』に参加しよう」と思って、初回を迎えるわけである。だから、最初に定義したところの「チーム」に参加している感覚を少なからず持つと考えていて、その共有する目標は人によって差異はあれど、概ね「その年の渋谷ズンチャカ!を無事に開催する」とか、まぁそんな感じでしょう(少なくとも、昨年参加した自分にとってはそうだった)。特に私は、就職して既に3年を過ぎていて、それも営業としてのキャリアを積んできて、ある程度の人数以上の組織となれば、「チーム」として動くことを意識することに慣れてしまっていたのも大きいに違いない。つまり、就職する前の私であれば、ここまで顕著に「チーム」を意識することはなかったかもしれない。

 チーム・ズンチャカ!は「チーム」である、というのは参加して2年目になった今でも決して、認識として間違ってはいないと思うが、1年目時点での視点で言えば参加以前より参加してからのほうが、よっぽどその認識は強まった記憶がある。(この記述は自虐や後ろめたさを含むが)私以外は少なくとも、何らかの役割を持って、本番が無事に開催できるよう、動いているように見えていた。一方の私はといえば、そもそも唐突に参加することを決めたために、MTGの日程を予め空けておくなどの準備ができておらず参加できない回もあったこと、当時仕事でダメージを食らっていてあまり精神的に余裕がなかったこと、立ち上がったばかりの部門(学校でいうところの委員会みたいなやつ)に参加したがゆえに、新入りたる私でなくても進め方がよく分かっていなかったことなどもうまくいかない理由としては大きかっただろうが、最初から既になんだかよく分からなかったのに、1ヶ月に2回ある集まりが回を追うごとに、気がついたらどう参加したらいいんだかさっぱり分からない状態になってしまい、キャッチアップもできずズルズルと、関わりたいエネルギーを持ちながら関わり方が分からず、次第にMTGにも行きにくくなってしまった。

 前述の通り、昨年を終えた段階では、何もやれなかった、貢献できなかったと思っては、打ち上げの類に参加する度に、エネルギーを使い果たせなかった「消化不良感」や、役割を全うできなかった「居づらさ」を感じて、あまりに耐え切れず途中退出することもよくあった。特にこの居づらさというのはチーム・ズンチャカ!を100%、価値観への共感を参加理由としている「コミュニティ」として捉えていれば、おそらく起こり得なかっただろう。私はほとんど「チーム」として捉えていて、かつ自らの役割を得られず、だからこそ全体のゴールたる「その年の渋谷ズンチャカ!を無事に開催する」に貢献できなければ、自分の参加意義はなく、必要とされることもまたなく、堂々と居座るのが苦しいと、まぁなんというか、目標未達の営業マンな気分だったのだ。そういえば、直前に某氏から某企画のMCの役割をもらったとき、最初に感じたのは「この居づらさから救われた」ということだった。結果として昨年は台風で「濃縮版」での開催となってしまって、企画そのものが流れてしまったので、最終的に打ち上げでは居づらかったわけだけども(これはもう、仕方ない)。

 実は上記のような結論に至ったのは、今年を経験したからであって、昨年時点ではむしろコミュニティの文化に合わなくて馴染めなかったのではないかと結論付けていた。「コミュニティにはそれぞれ文化があって、それに合う合わないはどうしても出てきてしまうから仕方ないよね」みたいなことを、誰かに言った覚えがある。本来、その結論に至るならばそのコミュニティから出るだけだと思うんだけど、それでも今年やっているのは、この消化不良感によるものである。ていうかこれだけ居づらさを感じながら、いつでも帰りたいと内心思っていながら、なんとか居座って残るほどに消化不良に陥ってる時点で、文化への適応より役割が必要だったって気付けよって思ったりなどするんだけれど、当時、客観視を綺麗にできるような精神的余裕はあまりなかったから仕方ないよね。

そんで、コミュニティと捉えるか?

 「関わり方は自由」と謳いがちなチーム・ズンチャカ!なので、どちらかといえば全体的な姿勢は「チーム」より「コミュニティ」に寄っていると思っている。昨年の自分が、コミュニティに適応できなかったのだと結論付けたのもそれが理由の一つではないかと今となっては思うが、何でも受け入れるというのは、突き放すというのと表裏一体だから難しい。他人に対してそこまでお節介になれる人のほうがきっと、珍しい。

 さて、あまりに昨年消化不良すぎた私は今年、縁の下ズという部門に入ることに決めた。これは、全体のMTGで決めきれなかったことを決めたり、全体的な計画・段取りを立てたり、まぁなんというか全体を見る感じの部門で、だけれど、そんな中身はどうでもいいのだ。ここに入ると宣言したというのは、とどのつまり「今年はしっかりコミットします」という宣言をしたのと私の中では同義であって、役割の内容については実際のところ、ここに入るという決断以上に重要なことではない。そして、キャプテンになったのはなりゆきなので、縁の下ズに参加するほど決断はしていない。私にとって重要だったのは、この縁の下ズという部門に入ることによって、コミットする宣言を先にしてしまったということであった。

 そうして、少なくとも昨年よりは間違いなく働いた(それでもやりきれなかったこともあるし、エネルギーはまだある程度残っているので、それはそれでまた来年)。私としては縁の下ズに参加したほうが重要だったが、端から見たらキャプテンという役割のほうが重要だったのかもしれない。今年は、明らかに周囲の接し方が変わった。そして、キャプテンだからの大義名分のもと、自分としてもコミュニケーションが取りやすくなった。だから今年やってみてよく分かったのは、役割を得てしまえば溶け込みやすいということだった。

 これは、目標を大幅に超えて達成した営業マンが、コミュニケーション上、社内でマウントを取りやすいみたいな話とも近い可能性はあるが、それ以上に思ったのは、コミュニケーションの量を重ねることで、昨年合わなかったのだろうと結論づけた文化とやらに、適応しやすくなったのではないかということである。今年の始め、まだ縁の下ズにもキャプテンにもなっていない時代に頻繁に言ってた「ズンチャカ!らしさって何だよ」という言葉は、それでもよく分かってないけど、今となってはなんとなく体感していて、そうしていつだったか、某氏に「そのコミュニケーションの取り方は、あんまりズンチャカ!っぽくない気がする」とか言ったときに、それに気付いた。あるいは、「ズンチャカ!らしさ」みたいなものがインストールされると、むしろ自分で役割を作り出しやすくなる、その価値観の中で自分は何をやりたいか考えやすくなるというのも大きいだろう。だからつまり、チームから入って自らの役割を元にコミュニケーションを取った結果として、コミュニティの価値観がインストールされて、コミュニティのメンバーになりつつあるのではないかと考えている。それでもやっぱり、チームとして捉えるほうが抜けるわけではないので、さて来年役割がないぞとなれば、それはまだまだ厳しいのだろうけれど、それでも昨年の私よりはこのチーム・ズンチャカ!に大した役割を持たずして参加することを、自分に対して許せるのではないかなと思ったし、少なくともコミュニケーションが取りやすい分、居心地の悪さは昨年の自分より感じないだろう。

 そういえば、コミュニティは解散しないわけで。少なくともコミュニティに参加できているメンバーは、来年も参加する可能性が高いよねっていう話もありそうだ。そうして残り続けたメンバーと、新たに参加するメンバーによって、「ズンチャカ!らしさ」は成熟していくのだろう。キャプテンになりたての頃、実は、来年参加のことなど考えたことはなかった。ただただ今年こそは役割を全うして、昨年の消化不良を消化し切れればいいかと思っていたが、本番直前くらいから来年のことを考えて出し始めている自分を、当時の自分が見たら笑うだろうか。

つまり、最初は役割があったほうがいいよねって

 結論としてはそういうことなんだけど、関わっていく時間や経験を重ねるごとに、そのうち役割が大して無くたってなんとなくゆるく、関われる日がくるのかもしれない。あるいは、役割がほしいとなれば、価値観をもとに自ら作り出していきやすくなるだろう。少なくとも私は、昨年から今年を経験してそんな気がしている。最初からコミュニティに参加している認識のあるメンバーなら問題ないけれど、この先私がまた新たに入ってきたならば、茶化さず一緒に悩めるようにいたくて、忘れないようにこう残しておくことにした。今年、この課題感に対してアプローチできたかと言われれば、他人を癒すより昨年の自分を癒すことを選んだ結果として、大したことは何一つとしてやれていないので、来年どうしていきたいか考えて考えて考えて、具体的に落としてから今年のキャプテンとしての最後の仕事を終えたいものですね。あー、長かった。おしまい。


追伸: 某氏のnoteでの振り返りを読んで、そこに「まだ俺は必要とされているんだ!、って思って」という記述を発見したとき、あぁ、きっとなんとなく同じような感覚だったのだろうと思った。それが、私にとっては本番直前に話をもらった某企画のMCだったんだろうなぁ。

©︎moemarusan